※今日の日記の内容は真面目な話で、自戒の意味をこめたものでしかありません。
  ※ですので、読むべきではない内容かと思うために、空白連打します。
  ※読んで不快になられたとしても、当方は責任を負いかねますので御注意を。
  ※それとこれは個人の日記でしかないことを御留意くださいませ。
  ※微グロ注意




















 動物実験と呼ばれるものがあります。試験管の中で培養された細胞ではなく、生きている動物を使用した実験です。
 一口に動物実験と言ってもその用途は様々で、ラットやマウスといった実験用に飼育された動物達に新薬を投与して薬物動態を調べたり、解剖を行うことによって諸組織の構造を把握したり、あるいは純粋に治験を行うために必要なデータを積み重ねたりと、そのバリエーションは多岐にわたります。
 実験の内容が致死性のない薬物の投与であったのならば薬物注射を受けた動物であっても数日ほど寝込めば回復します。腹を切開しても上手く縫合すれば、長い期間の果てに回復します。ですが実験という性質上、当然のように死ぬ動物も出てきます。現に今日も死亡した実験動物を私は見ました。もちろん実験動物の死を見たのは今日が初めてというわけでもありません。
 およそ私は勉強途中の大学生でしかなく、研究者と呼べるほどの者ではありません。駆け出しにすらなっていません。ただの本に書いてある知識しか覚えていない学生です。――けれど、そんな始めの一歩を踏み出していない私でも今まで実験のために片手の指では足りないだけの数の実験動物に厄介になってきました。そして恐らく、この道を進み続けることになったのなら途方もない実験動物の死を看取っていくことになるのでしょう。
 動物実験
 残酷な響きのある言葉です。舌でその言葉を転がしてみるとゾッとします。そして事実、体験してみるとゾッとします。注射針がラットの腹膜を通過する、湯葉を爪楊枝で刺すような感覚的には軽い、そして心理的にはラットの命を揺り動かしている重い感触がいつまでも注射器を持った右手に残ります。キーボードを打っている現在であっても震えに似た靄のような後味が残っています。それは気持ちのいいものではありません。手を開閉しても消えるものではありませんでした。
 これから私は短くはない期間、どれだけ思考が熱くあったとしても実験ノートとケイジそして注射針を見れば、じわじわと思考が強制的に冷まされていくだろうと思います。血の匂いも、排泄物の匂いも同様です。もしかすると、白衣を着込むだけで思い出すかもしれません。それくらいに動物実験は軽くないものです。
 別に今日が初めて動物実験を行ったというわけではありません。けれど、どうしてか今日、このような実験を行って初めて心底怖いと感じました。
 薬学の発展に動物実験は不可避のものであることは理解しています。薬学の発展が何人もの人の命を救ってきたことも理解していました。――しかし、私は動物実験というものを理解していたのかについては解らなくなりました。
 怖いと感じたのはどうしてなのか。自問してみると解りません。自前のつたない倫理観が人以外の動物であっても命を扱うことを怖がったのかもしれません。あるいは動物の身となって考えて怖くなっただけかもしれません。それ以外にも本人が気付いていない理由があるのかもしれません。ですが、理由を絞ることはできません。ただ、半端な気持ちから生まれたものではではなかったはずだとは思いたいですが。
 私の知っている先輩は「全ては慣れやな」と言いました。経験者の言葉であるだけに信憑性のある言葉です。そして言葉どおりに先輩の手際は私などよりも鮮やかでした。ある疾患の治療薬を研究していると言うその先輩は、私に実験の手本を見せる時も表情一つ変えていませんでした。「俺も最初は怖かったよ」と言っていました。それはきっと本当のことなのでしょう。
 最初は怖かった。だけど次第に慣れた。
 この言葉の中の慣れたという言葉は語る必要もないかもしれませんが、当然ながら重いものです。流されて慣れたというものではありません。目的のために慣れたというものです。ですから同時に難しくもあります。少なくとも私は難しいと感じます。
 今日の日記を書こうと思った原因である右手に残った感触の残滓は、今でも右手に目を向ければ意思に関係なく浮き上がってきます。今日眠って、明日起きれば消えてしまうのかそれは解りません。ですが今も残っています。
 頭蓋に注射針を突き刺す。横隔膜を切る。気管支を取り出す。
 それらの行為は全て目的の下に行われる操作であり、決して動物虐待などではないと思います。だから私も何らかの研究を行うのならば、覚える必要がある操作だと考えています。むしろ覚えなければいけないものなのでしょう。
 このまま同じ学問を学び続けるつもりならば。